HOME > 鯨唄について

有川湾には古くから鯨の回遊が多く、慶長年間には銛突|こよって捕鯨が行われていた。
元禄四年(1687年)名主江口甚右工門によって有川鯨組が創設され敷網掛網を用い
て一躍大漁するようになり、多い年で83頭、少い年でも36頭の鯨がとれていた。
以来幾多の消長を繰返し明治の後期砲殺捕鯨の発達で湾内に回遊する鯨がいなくなり五島捕鯨は幕を閉じた。


有川鯨組が始まった頃、鎌倉弁財天の御分神を鯨組の守護神として祀ってから弁財天が始められたと伝えられている。メーザイテンといわれる鯨への感謝の祭りは、毎年正月十四日、五力郷青年団の手で年中行事として今なお引き継がれている。

衣装の由来、意味は、茜八巻に黒の着流しの「はざし」の容姿で揃い打ちの太鼓に併せて鯨唄を唄い、大漁や年の初めの幸を唄い込む。


昭和60年頃撮影



祝う目出度のさあよいやさあ
若松さいよ様じゃよさあよいさあよいやさあ
枝も栄えるよいやな葉も繁るよ
そりゃ今年しゃ仕合せさあよいやさあ
思った事ちゃさいよ叶うよ
さあよいやさあよいやさあ
未は鶴か亀よいやな五筆の松よ
そりゃ竹に成りたやさあよいやさあ
お山のさいよ竹によさあよいやさあ
旦那栄へる識竹よ
そりやーじゃいな又一じゃいな
祝ふて今年は仕合せよかろうよ
     ハイヤ   オイ



鯨船には刃差という銛打ちが乗組んでい
て鯨に銛を打込み、海中に潜って鯨の鼻を
切ぬいて綱通しをする等、鯨との格闘を演
じた海のつわもの達が大漁祝いや鯨祭りの
時に歌い踊っていた。

祝い目出度のさあ弁財天の浦よなさあ
弁財天の浦よな浦はチョイ 七浦七えびす

1.何とさいたる油やらハイヨ御方よ姫子も
出てうしゃれ生歌踊りの祝ふ面白やハイヨ

2.明日は吉日生歌打つハイヨ御方よ姫子も
出てうしゃれ生歌踊りの祝ふ面白やハイヨ

3.淀の四十路の水車ハイヨ御方よ姫子も
出てうしゃれ生歌踊りの祝ふ画白やハイヨ

4.空の星さや夜はえびすハイヨ御方よ姫子も
出てうしゃれ生歌踊りの祝ふ面白やハイヨ

5.八巻八巻茜八巻しっかと締めかけて
踊らば容姿のさあ面白や
一国二国三国 一じゃ祝ふて今年は仕合せ
よかろうよ   ハイヤ    オイ



旦那様の鯨船  如何なる大工が造りしぞ
座頭ばな一よし座頭ほんのほいよ
            座頭ば掛け揃え
旦那様の御家には如何なる御蛭子供えしぞ
旦那様の油納屋如何なる製造備えしぞ
旦那様の神楽さん如何なる月日に据えたやら
一国二国三国一じゃ この
御家は末が末まで
繁昌しましょうよ    ハイヤ  オイ





ヤーツトセー   ヤーツトセ
  飲めよ大黒唄えよえびす
  納屋の尺取りやノウ福の神
ヨーイトー そら巻け
そら巻いた(<りかえす)
  ヤーツトセー ヤーツトセ
沖にゃ鯨とるへたでは剖く
 納屋の旦那衆はノウ金はかる 

今年しゃ幸せ思うこちゃ叶う
 末は鶴亀ノウ五葉の松

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